「会を始めたころの話」(2)
チャンタソン・インタヴォン(共同代表)が語る
子どもと絵本の結びつきの強さに驚く。
Q 日本に留学となりました。1974年ですね。
◆ はい、日本語を学ぶことになっていましたが、私が学びたいのは教育でした。
私の他にフィリピンやカンボジア、タイからの留学生が6人いて、それぞれに勉強したいことがありましたが、日本語でなければダメと決められていました。
YWCAに相談に行ったら、「文部大臣に手紙を出したら?」とアドバイスされ、そうしました。またしても直談判です(笑)。当時は永井道雄文部大臣(三木内閣)でした。大臣は「母国を離れて日本に来て勉強をしようという留学生が、学びたいことが学べないというのはいけない」と言って、それまでは絶対ダメだった分野の変更ができるようになり、私は教育学が勉強できるようになりました。
教育行政を勉強するとなると、お茶の水女子大か奈良女子大しかなくて、東京がいいと思って、お茶大にしました。「お茶大出身ですか、すごいですね」とよく言われるけれど、入試は受けていません(笑)。国費だったのでラオスで試験を受けて、日本では受ける必要はなかったんです。
ところで、日本留学を勧めてくれたMさんは、実は私の父に頼まれて、そうしていたことが後でわかりました。父とすればフランスに私費留学されるより、国費で日本に行ってもらったほうがいいですものね。
Q 大学での教育の勉強が、今の活動につながった?
大学で勉強したことは、なかなか実感にはつながりません。今の運動は、結婚して子どもができてからです。
1980年に娘が生まれました。娘は小さいころから本が大好きでしたし、いろいろな人が絵本をいっぱいくれました。私は娘を膝に乗せて、毎日、読み聞かせをしていました。それはもう、日課といってもいいくらいで、本がないと生きていけないような、といったらいいのか。保育園も先生が積極的に絵本を読んでくれました。
初めてラオスに娘を連れて帰ったのは2歳のときで、子どもの荷物は絵本でした。絵本で子どもがどんどん自分の世界を広げていく。ああ、これは私が小さいころに経験したことがないことだなあと思いました。
私が小さいころは、家では父が本が好きでよく読んでいて、本もありましたが、それはタイ語の本でした。ラオス語の本はありませんでした。でも親はいろいろな物語を話してくれました。おばあちゃんは字が読めませんでしたが、お寺で聞いた話をよくしてくれました。ラジオではお話の番組があって、ラジオの前でずっと聞いていた記憶もあります。ラオス語の放送です。大きくなってからはタイの放送局のラジオドラマも聞きました。これはタイ語です。
Q 活動が生まれたのは、どういうことからですか?
◆ 自分の子どもが楽しく読んでいるものをラオスの子にも、と思ったからです。
ラオスの実家に帰ると、私の娘はいつものように楽しく絵本を読んでいます。でも、そこにいっしょにいる、娘のいとこたちには読む絵本がありませんでした。小学校に行くと、教室は暗くて、教科書は先生が読むだけしかありませんでした。ラオスの子たちにも自分の娘のように本に楽しんでほしいと思ったのです。
Q どういう活動を始めたのですか?
ラオスから戻り、夫〔野口(朝)事務局長〕の知り合いで早稲田奉仕園に出入りしている人や、私がラオス語を教えていた南さん(元事務局長)と、その知り合いの新聞記者のSさんや出版社に勤めている人と集まったときに、「ラオスに絵本を読む楽しさを伝えたい」とちょっと言ったら、「いいじゃない!」と(笑)。1982年のことです。
〔野口(朝):この活動に最初に関わったメンバーは、朝日カルチャーセンターでタイ語を勉強していた人たちで、宴会仲間です。今の会計の風間さんと監事の野口(賢)さん、元事務局長の森(千)さんがいました。早稲田奉仕園では新聞記者のSさんなどです。南さんは1975年にサイゴン陥落の時に最後まで残っていた人の一人。本も出しています。〕
◆ 娘の通う保育園のお母さんたちとも話して、毎年やっているバザーで、集まったものを整理していたとき、「この絵本をラオスに送りたい」と言ったら、「いいんじゃない!」と。そこから、バザーに出す前に本をもらって、送るようになりました。
1980年代は、ラオスは革命後で何もない状態でした。日本は物があふれていて、バザーで売れ残りが出ましたが、処分してしまうのはもったいないので、本や洋服、おもちゃをいただきました。4~5箱くらいになって、自費で送りました。
していた私の高校時代の先生あてに。
直接学校に送ることはしませんでした。なぜならば、社会主義で政府の検閲があるので、むやみには送れなかったのです。それで、高校の恩師が国際児童年国内委員会のメンバーだったので、その先生に送ったのです。
◆ ええ、1箱送るのに7,000~8,000円くらいして、
10箱もあると大変でしたから。
南さんは寄付者第1号でした。そのときから、「ラオスのこどもに絵本を送る会」と会の名前をつけたのです。初代事務局長は南さんです。南さんは麻雀が得意な人でした。
国際児童年の国内委員長は、当時の副大統領で、これからも応援してほしいと言われました。副大統領は専用機で地方をよく回っていたので、絵本を届けていただきました。
◆ 「なんて書いてあるの?」と聞かれて、ショック!
届けてくれたという銀行の保育園に行ったら、絵本がちゃんと置いてあったのでうれしかったです。もしかして捨てられたかも知れない、と思っていたので。
ショックだったことがあります。絵本を見ていた小さな子どもに、「おばちゃん、これなんて書いてあるの?」と聞かれたのです。これ、と指をさしているところには日本語がありました。学校に行く前の年の子で、絵にしか興味がないと思いきや、文字に興味を持っていたのでした。まさか、文字に興味があるとは。
やはりラオス語にしないとダメだなと、そのときに思いました。たぶん、先生がお話を作って話してくれているんでしょう。でも、読むたびに話が違ってはダメでしょ(笑)。いつかは翻訳してあげなくちゃと、80年代はずっと思っていました。でも、なかなかできず、子どもがとりあえず興味を持ってもらえればと思って、日本語のままの絵本を送っていたんです。
Q ラオスにはロシアの絵本がありますね?
◆ ロシアの絵本がラオス語に翻訳されました。
ラオスは、ソ連の支援を受けていて、ロシア語の本がラオス語に翻訳されていました。ラオス人作家のウティンさんがソ連に招聘されて、ラオス語に翻訳する仕事をしていたのです。それを聞いて驚きました。フランスの植民地だった時代は、1冊もラオス語に翻訳されませんでしたから。ところが、社会主義になって、ぶ厚い本がロシア語からラオス語に翻訳されていったんですね。すごいと思いました。私が送る本も翻訳しなければ、と思いましたが、当時はまだできませんでした。
interviewer:キキJAWS山本(会員)
構成:森 透(共同代表)
(3)に続く→
| 固定リンク


コメント