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2007年2月20日 (火)

「会を始めたころの話」(1)

チャンタソン・インタヴォン(共同代表)が語る

<ラオスのこども>の記録ノート。まずは、25年前に「絵本を送ろう」と言い出したチャンタソンの、あれやこれやの話を書きとめます。



 チャンタソン・インタヴォン Profile―― 

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ヴィエンチャン高校(リセ・ドゥ・ヴィエンチャン)を卒業し、ロイヤル・エア・ラオに勤務。日本政府国費留学生として来日。お茶の水女子大学大学院修士課程人文科学科を経て、1986年に東京都立大学大学院博士課程修了。外務省研修所ラオス語講師、和光大学、東京外国語大学非常勤講師を務める。1982年、ラオスの子供に絵本を送る会(現・特定非営利活動法人ラオスのこども)を立ち上げる。後、ラオスの女性とともに仕事を作る会を設立。著書に『もっと知りたいラオス』(分担執筆:弘文堂)、『ラオス語入門』(共著:大学書林)、『ラオスの布を楽しむ』(アートダイジェスト)など。



日本への留学試験に受かってしまった。

 最初に日本に来たのはいつですか?

 留学生として、1974年に。

リセ(高校)を卒業して航空会社に勤めていたころ、幼なじみに誘われて日本の留学試験を受けました。当時、留学といえばフランスだったし、日本に興味はなかったけれど、受けてみました。そうしたら、私のほうが合格してしまいました。

 日本は、どんなイメージでした?

 日本人は漢字を使う民族で、怖い印象がありました(笑)。

 留学前、日本語の勉強は?

 1時間だけ教わったことがあります。

家の近所の専門学校で、青年海外協力隊の人が日本語の授業をしていて、友だちと行ってみました。「ありがとう」、そしてなぜか「自転車」という言葉が耳に残りました。

父に、日本語を勉強することを相談すると、「(フランス語のほかに)第1外国語の英語、第2外国語としてラオス語を勉強しているのだから、日本語までは無理じゃないか」と言われてしまいました。

 ラオス語は外国語、ですか?

 当時、学校で習うのはフランス語で、ラオス語は家で使うことばでした

もちろんラオス語はふつうにしゃべりますが、学校では習わないので読み書きができなかったのです。

中学に入ったとき、「ラオス語も勉強させてください」と学校に頼みました。「いいですよ」と言われ、私が入れられたのは10番目のクラスでした。クラスは成績順になっていて、ラオス語をやりたいと言ったとたん、いきなりビリ扱い。それまで成績はよかったので、とても屈辱的でした。でも先生は何もしてくれなかったのです。

2年生になり、また直談判しました。「ラオス語をちゃんと教えてください」と。考えると、そこから反抗期が始まったかも(笑)。こうしてラオス語を一から勉強し、マスターすることができした。私にとってラオス語の読み書き能力は、勝ち取ったものだったのです。

 日本に関心はわいてきたのですか?

 ラオスにいた朝鮮人のおじさんに日本行きを勧められました。

日本に留学する奨学金は日本語の先生になるためのものでした。私が勉強したいこととは違いましたが、他のことを勉強するのであれば、私費留学しかありません。でもそれは大変なので、奨学金がもらえることを選びました。

父の友人でMさんというおじさんがいました。日本名でしたが朝鮮の人で、戦争の時に日本軍に徴用され、戦後タイに残り、ラオスに来ていました。おじさんは私をとてもかわいがってくれました。テストでいい点を取って見せに行くと、親よりも喜んでくれて褒めてくれました。私は何かあるとおじさんのところに行っていました。留学のことを相談すると、

「これから日本とラオスの関係もよくなるから、日本で勉強するといいよ」と助言されたのです。そして、「日本人は優しい人ばかりだよ」と言っていました。

後になって思ったのは、日本に占領された国の人なのに悪口を言わないなんてすごいなあということ。彼は中学の時に日本に行き、徒弟制度の中で親切にされたとか。

まだ迷いはあったけれど、思い切って日本への留学を決めました。

 何を勉強したいと思ったのですか?

 教育行政です。

自分が受けてきた教育、ラオスの教育の現実に、子どもなりに矛盾を感じて、変えないといけない、と思ったんですね。

小学校に入るとき、どういう訳か、地元の学校ではなく、リセに行きたいと思っていました。あこがれがあったんですね。

リセはフランス人やベトナム人の子、ラオス人は良家の子ばかりで、入学試験はありませんでした。私の父は軍人でしたが、偉くはなかったので、上官に頼んで入れてもらったみたいです。私の家は下町にあって、まわりは元気な人ばかり。でも、うちの親は下品な言葉を使ってはいけないと言っていました。上流階級になりたかったのかな(笑)。私も子どもなりに上昇願望があったと思います。父方の親戚がリセに通うのがかっこよく見えたのかも知れません。

入ったら、フランス語が全然分からなくて。見事に1年生で留年しました。授業は全部フランス語でした。先生はフランス人やベトナム系フランス人、ラオス人、アルジェリア人もいました。上流階級のラオス人は家庭でもフランス語を話していましたが、うちはラオス語だったので、授業についていけなかったのです。

でも、先輩たちが教室を借りて塾のようにして後輩を教えてくれたおかげもあって、2年生には少しずつできるようになって、トップになりました。中学生になったら、さっき話したように、また下がったんですけど(笑)。

私の叔母は学校の先生をしていました。リセが休みの日、私は叔母にくっついてラオスの学校に行ってみて、びっくりしました。

教科書がほとんどありません。ノートも同様で、鉛筆も短くなったのを使っていて。

「同じ町の中なのに、リセとラオスの学校では、どうしてこんなに違うの?」

とてもショックでした。ラオスの学校の生徒がリセに行くと、これまたびっくりでした。

そんなことから、私は中学生のころから政府の教育に疑問を持っていました。当時は学生運動があって、中学生もデモに行っていました。みんな、「もっといい社会をつくろう、こんな大人になりたくない」という話は中学生のころからしていました。父は、私がデモに行かないように言いましたが、それは軍人という立場からで、個人としての考えはそうでないことはわかりました。私は大きくなったら、学校の先生か医者になりたいと思っていました。

日本に来て、学生の話題がファッションやTVタレントのことばかりで、これにも驚きました(笑)。

 当時のラオスはどんな様子でした?

 王政時代で、反政府勢力と内戦状態にありました。

ラジオからは軍隊を支援するための寄付や配給の話が流れていました。私のおばあちゃんは、文字は読めなかったけれど、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)と北京放送の両方を聞いていて、ニュースに敏感な人でした。

戦闘の報道は勝ったとしか言いませんから、ヴィエンチャンには実際の話は伝わってきませんでした。ただ、貧しい家の子は徴兵されていきました。学校でも、「あ、あの子がいなくなった」といって。豊かな家の子は徴兵されませんでした。

 フランス語の本というのは読む機会はあったのですか?

 よく読んでいました。

リセの近くに図書館があって、フランス語の絵本や児童書もたくさんありました。大人向けのフランスの雑誌『ムーラン・ルージュ』や英語の本もありました。

本を読んでいたおかげで、いろいろなことを知ることができました。のちに娘が生まれ、子どもと本の、本当に強い結びつきというものを知りました。それは、私が子ども時代に経験したことのないものだったのです。

interviewer:キキJAWS山本(会員)

2)へ続く

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