2007年4月23日 (月)

「会を始めたころの話」(3)

チャンタソン・インタヴォン(共同代表) 

野口朝夫(事務局長)● 

物を送る活動から、出版、移動図書箱の支援へ。

 最初のころは、どういうふうに活動していたのですか?

● 本や文具などを集めて、送りました。

タイ語を学んでいた仲間で、本を集めることを始めました。子どもが通っていた保育園や新聞などを通じて呼びかけ、協力してくださった神社に一旦集めて、仕分けしてラオスに送りました。年に2回ほどですね。

本だけじゃなくて文房具もたくさん集まりました。服や鉛筆などの寄付も集まりました。使った肌着や短かくなった鉛筆まであって唖然とすることもしばしばでした。また量が多過ぎても送料がかかって困るんです。運賃は船便で1回40万~50万円かかるところを、笹川財団系列の団体に無料で送ってもらいました。当初、年に3,4回程度の集まりだったのが、1990年ごろになると月1回の定例会を開くようになりました。そのころは紙袋2つ程度の書類(申請書など)を持って、渋谷駅のそばの知り合いの料理教室を借りて、食べたりしながら会議をしていました。また、そのころ、ラオスに行くのにもまったくの個人のお金でした。

 物を送る活動は、やがてやめますね。

● 出版へと方向転換しました。

「物を送る援助では何も解決しない」という意見が森千也さん(2代目事務局長)からたびたび出され、しだいに他のメンバーの考えもその方向に向かっていきました。1989年のこと、寄付された物をラオスに送るときNHKが取材に来ました。神社に集められた物を取材記者(大村さん)が見た印象は、「ごみの山」でした。これが一つのきっかけとなり、支援の仕方を改めるようになりました。この報道番組の中で、「本を出版するお金が欲しいです」と訴えたところ、番組を見ていた日本語学校の先生から、お金を使ってくださいと申し出がありました。こうして、1990年、田島伸二さんの作品『ビックリ星』をラオス語にして出版することができました。

 移動図書箱の活動はいつからですか?

 1992年から会でも移動図書箱の支援を始めました。

移動図書箱は、大人2人で運ぶような重い木の箱でできていて、開くと中に本が入っているというもので、タイのソンブン先生が開発したものです。ソンブン先生はラオスに来て、これを紹介し、ラオスでもやろうという話が起きていました。それが1987年ですが、私たちが移動図書箱の支援を始めたのは1992年です。しかし、箱があっても、そこに入れるラオス語の本がなかったのです。そこで、最初は旧ソ連時代からラオスにあったロシア語の本を箱に入れたりしました。その後、会としては移動図書箱の小学校などへの配布とラオス語の本の出版は並行して進めていくことになります。

 70年代に青春を送ったチャンタソンさんと野口さんですが、出会ったころに反戦などについて語りあったりしたのですか?

 出会ったのは早稲田奉仕園で、そこでのアジアの勉強会に関わっていました。その関係で野口の家に留学生が遊びに来るようになり、チャンタソンも先輩に誘われて顔を出すようになったのです。その後もアジアの話はしましたが、変えていこう!というような話はしていないですね。野口の家には、ベトナム、タイ、台湾などアジアの留学生が来て、ご飯をご馳走になっていて、私は先輩に誘われて来ました。

● その頃はNGOということばもボランティアということばも市民権を得ていませんでした。

 活動を始めたころ、ラオス人でいっしょに参加した人はいましたか?

 75年にラオスで社会主義革命が起こり、王制が終わってラオスから後輩の留学生は来なくなりました。先輩の留学生はいましたが、どちらかといえば社会主義政府に反対する運動をしていました。私は彼らと付き合わずにいたら、「アカ」とレッテルを貼られました。私はラオス人のために何かをしたいと思っていました。

 日本70年代の終わりごろ、難民支援のNGO活動が始まります。

会は、それらとは異なる活動ですね。

● ベトナム戦争が1975年に終わり、ベトナム、ラオス、カンボジアから難民となって国を出るインドシナ難民問題が起こって、70年代の終わりごろ日本の市民による難民支援のNGO活動が始まりました。タイの難民キャンプでの支援などですね。戦争中に敵として戦った人々はラオスに留まることは危険で難民となりました。しかし、それとは別に、社会主義となった国は捨てて出ていらっしゃい、こっちの水は甘いぞ、と言わんばかりに、難民になることを促すかのような活動もありました。私たちは、そうではなく、自分の文化に誇りを持って自分の国づくりを担い、子どもたちが夢を持てることに焦点を当てようと考えたのです。

 東京でのお正月パーティはいつごろから始まっているのですか?

 ラオスは4月に新年(ピーマイ)を迎えます。第1回のピーマイパーティは1982年ごろです。千石にあるアジア文化会館(ABK)を借りて毎年やっていました。政治背景のない、だれにでも来てもらえるものにしようと、公共施設を借りて開いてきました。最初のころは、会場探しやお料理を作るのにたいへんでした。人数は初めのころから100人くらい来てくれましたよ。かつては自宅で今は事務所の台所で一晩かけて料理を作り、野口が車で運びました。日本の人々にラオスの子どもたちのこと、ラオスの文化を伝えるというテーマでずっとやってきたのです。最初は、大学やお世話になった人など個人的な知り合いが来てくれて、それからだんだん輪が広がりました。25年間で1回だけ休みました。それは下の子が生まれたとき。私はやりたいと言ったけど、強制的に休まされました。食材は日本にあるもので、なんとかかき集めました。昔はパパイヤを探すのがたいへんで、上野まで行って買ってきました。ピーマイパーティでは、日本人と結婚したラオス人の女性など、ラオス人や日本人のいろいろな女性が一緒に料理を作ってくれました。今では、ボランティアのみなさんが料理の腕を上げて、演出もとてもすばらしくなりました。

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2007年3月 6日 (火)

「会を始めたころの話」(2)

チャンタソン・インタヴォン(共同代表)が語る

子どもと絵本の結びつきの強さに驚く。

 日本に留学となりました。1974年ですね。

 はい、日本語を学ぶことになっていましたが、私が学びたいのは教育でした。

私の他にフィリピンやカンボジア、タイからの留学生が6人いて、それぞれに勉強したいことがありましたが、日本語でなければダメと決められていました。

YWCAに相談に行ったら、「文部大臣に手紙を出したら?」とアドバイスされ、そうしました。またしても直談判です(笑)。当時は永井道雄文部大臣(三木内閣)でした。大臣は「母国を離れて日本に来て勉強をしようという留学生が、学びたいことが学べないというのはいけない」と言って、それまでは絶対ダメだった分野の変更ができるようになり、私は教育学が勉強できるようになりました。

教育行政を勉強するとなると、お茶の水女子大か奈良女子大しかなくて、東京がいいと思って、お茶大にしました。「お茶大出身ですか、すごいですね」とよく言われるけれど、入試は受けていません(笑)。国費だったのでラオスで試験を受けて、日本では受ける必要はなかったんです。

ところで、日本留学を勧めてくれたMさんは、実は私の父に頼まれて、そうしていたことが後でわかりました。父とすればフランスに私費留学されるより、国費で日本に行ってもらったほうがいいですものね。

 大学での教育の勉強が、今の活動につながった?

 そうではなく、娘が生まれたことからです。

大学で勉強したことは、なかなか実感にはつながりません。今の運動は、結婚して子どもができてからです。

1980年に娘が生まれました。娘は小さいころから本が大好きでしたし、いろいろな人が絵本をいっぱいくれました。私は娘を膝に乗せて、毎日、読み聞かせをしていました。それはもう、日課といってもいいくらいで、本がないと生きていけないような、といったらいいのか。保育園も先生が積極的に絵本を読んでくれました。

初めてラオスに娘を連れて帰ったのは2歳のときで、子どもの荷物は絵本でした。絵本で子どもがどんどん自分の世界を広げていく。ああ、これは私が小さいころに経験したことがないことだなあと思いました。

私が小さいころは、家では父が本が好きでよく読んでいて、本もありましたが、それはタイ語の本でした。ラオス語の本はありませんでした。でも親はいろいろな物語を話してくれました。おばあちゃんは字が読めませんでしたが、お寺で聞いた話をよくしてくれました。ラジオではお話の番組があって、ラジオの前でずっと聞いていた記憶もあります。ラオス語の放送です。大きくなってからはタイの放送局のラジオドラマも聞きました。これはタイ語です。

 活動が生まれたのは、どういうことからですか?

 自分の子どもが楽しく読んでいるものをラオスの子にも、と思ったからです。

ラオスの実家に帰ると、私の娘はいつものように楽しく絵本を読んでいます。でも、そこにいっしょにいる、娘のいとこたちには読む絵本がありませんでした。小学校に行くと、教室は暗くて、教科書は先生が読むだけしかありませんでした。ラオスの子たちにも自分の娘のように本に楽しんでほしいと思ったのです。

 どういう活動を始めたのですか?

 バザーに出す本をもらって、ラオスに送りました。

ラオスから戻り、夫〔野口(朝)事務局長〕の知り合いで早稲田奉仕園に出入りしている人や、私がラオス語を教えていた南さん(元事務局長)と、その知り合いの新聞記者のSさんや出版社に勤めている人と集まったときに、「ラオスに絵本を読む楽しさを伝えたい」とちょっと言ったら、「いいじゃない!」と(笑)。1982年のことです。

〔野口(朝):この活動に最初に関わったメンバーは、朝日カルチャーセンターでタイ語を勉強していた人たちで、宴会仲間です。今の会計の風間さんと監事の野口(賢)さん、元事務局長の森(千)さんがいました。早稲田奉仕園では新聞記者のSさんなどです。南さんは1975年にサイゴン陥落の時に最後まで残っていた人の一人。本も出しています。〕

 娘の通う保育園のお母さんたちとも話して、毎年やっているバザーで、集まったものを整理していたとき、「この絵本をラオスに送りたい」と言ったら、「いいんじゃない!」と。そこから、バザーに出す前に本をもらって、送るようになりました。

1980年代は、ラオスは革命後で何もない状態でした。日本は物があふれていて、バザーで売れ残りが出ましたが、処分してしまうのはもったいないので、本や洋服、おもちゃをいただきました。45箱くらいになって、自費で送りました。

 どこに送ったのですか。

 ラオスの国際児童年国内委員会の委員を

していた私の高校時代の先生あてに。

直接学校に送ることはしませんでした。なぜならば、社会主義で政府の検閲があるので、むやみには送れなかったのです。それで、高校の恩師が国際児童年国内委員会のメンバーだったので、その先生に送ったのです。

 会をやろうと言ったのは、チャンタソンさん?

 ええ、1箱送るのに7,000~8,000円くらいして、

10箱もあると大変でしたから。

南さんは寄付者第1号でした。そのときから、「ラオスのこどもに絵本を送る会」と会の名前をつけたのです。初代事務局長は南さんです。南さんは麻雀が得意な人でした。

国際児童年の国内委員長は、当時の副大統領で、これからも応援してほしいと言われました。副大統領は専用機で地方をよく回っていたので、絵本を届けていただきました。

 送ってみて、どうでしたか?

 「なんて書いてあるの?」と聞かれて、ショック!

届けてくれたという銀行の保育園に行ったら、絵本がちゃんと置いてあったのでうれしかったです。もしかして捨てられたかも知れない、と思っていたので。

ショックだったことがあります。絵本を見ていた小さな子どもに、「おばちゃん、これなんて書いてあるの?」と聞かれたのです。これ、と指をさしているところには日本語がありました。学校に行く前の年の子で、絵にしか興味がないと思いきや、文字に興味を持っていたのでした。まさか、文字に興味があるとは。

やはりラオス語にしないとダメだなと、そのときに思いました。たぶん、先生がお話を作って話してくれているんでしょう。でも、読むたびに話が違ってはダメでしょ(笑)。いつかは翻訳してあげなくちゃと、80年代はずっと思っていました。でも、なかなかできず、子どもがとりあえず興味を持ってもらえればと思って、日本語のままの絵本を送っていたんです。

 ラオスにはロシアの絵本がありますね?

 ロシアの絵本がラオス語に翻訳されました。

ラオスは、ソ連の支援を受けていて、ロシア語の本がラオス語に翻訳されていました。ラオス人作家のウティンさんがソ連に招聘されて、ラオス語に翻訳する仕事をしていたのです。それを聞いて驚きました。フランスの植民地だった時代は、1冊もラオス語に翻訳されませんでしたから。ところが、社会主義になって、ぶ厚い本がロシア語からラオス語に翻訳されていったんですね。すごいと思いました。私が送る本も翻訳しなければ、と思いましたが、当時はまだできませんでした。

interviewer:キキJAWS山本(会員)

構成:森 透(共同代表)

3)に続く→

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2007年2月20日 (火)

「会を始めたころの話」(1)

チャンタソン・インタヴォン(共同代表)が語る

<ラオスのこども>の記録ノート。まずは、25年前に「絵本を送ろう」と言い出したチャンタソンの、あれやこれやの話を書きとめます。



 チャンタソン・インタヴォン Profile―― 

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ヴィエンチャン高校(リセ・ドゥ・ヴィエンチャン)を卒業し、ロイヤル・エア・ラオに勤務。日本政府国費留学生として来日。お茶の水女子大学大学院修士課程人文科学科を経て、1986年に東京都立大学大学院博士課程修了。外務省研修所ラオス語講師、和光大学、東京外国語大学非常勤講師を務める。1982年、ラオスの子供に絵本を送る会(現・特定非営利活動法人ラオスのこども)を立ち上げる。後、ラオスの女性とともに仕事を作る会を設立。著書に『もっと知りたいラオス』(分担執筆:弘文堂)、『ラオス語入門』(共著:大学書林)、『ラオスの布を楽しむ』(アートダイジェスト)など。



日本への留学試験に受かってしまった。

 最初に日本に来たのはいつですか?

 留学生として、1974年に。

リセ(高校)を卒業して航空会社に勤めていたころ、幼なじみに誘われて日本の留学試験を受けました。当時、留学といえばフランスだったし、日本に興味はなかったけれど、受けてみました。そうしたら、私のほうが合格してしまいました。

 日本は、どんなイメージでした?

 日本人は漢字を使う民族で、怖い印象がありました(笑)。

 留学前、日本語の勉強は?

 1時間だけ教わったことがあります。

家の近所の専門学校で、青年海外協力隊の人が日本語の授業をしていて、友だちと行ってみました。「ありがとう」、そしてなぜか「自転車」という言葉が耳に残りました。

父に、日本語を勉強することを相談すると、「(フランス語のほかに)第1外国語の英語、第2外国語としてラオス語を勉強しているのだから、日本語までは無理じゃないか」と言われてしまいました。

 ラオス語は外国語、ですか?

 当時、学校で習うのはフランス語で、ラオス語は家で使うことばでした

もちろんラオス語はふつうにしゃべりますが、学校では習わないので読み書きができなかったのです。

中学に入ったとき、「ラオス語も勉強させてください」と学校に頼みました。「いいですよ」と言われ、私が入れられたのは10番目のクラスでした。クラスは成績順になっていて、ラオス語をやりたいと言ったとたん、いきなりビリ扱い。それまで成績はよかったので、とても屈辱的でした。でも先生は何もしてくれなかったのです。

2年生になり、また直談判しました。「ラオス語をちゃんと教えてください」と。考えると、そこから反抗期が始まったかも(笑)。こうしてラオス語を一から勉強し、マスターすることができした。私にとってラオス語の読み書き能力は、勝ち取ったものだったのです。

 日本に関心はわいてきたのですか?

 ラオスにいた朝鮮人のおじさんに日本行きを勧められました。

日本に留学する奨学金は日本語の先生になるためのものでした。私が勉強したいこととは違いましたが、他のことを勉強するのであれば、私費留学しかありません。でもそれは大変なので、奨学金がもらえることを選びました。

父の友人でMさんというおじさんがいました。日本名でしたが朝鮮の人で、戦争の時に日本軍に徴用され、戦後タイに残り、ラオスに来ていました。おじさんは私をとてもかわいがってくれました。テストでいい点を取って見せに行くと、親よりも喜んでくれて褒めてくれました。私は何かあるとおじさんのところに行っていました。留学のことを相談すると、

「これから日本とラオスの関係もよくなるから、日本で勉強するといいよ」と助言されたのです。そして、「日本人は優しい人ばかりだよ」と言っていました。

後になって思ったのは、日本に占領された国の人なのに悪口を言わないなんてすごいなあということ。彼は中学の時に日本に行き、徒弟制度の中で親切にされたとか。

まだ迷いはあったけれど、思い切って日本への留学を決めました。

 何を勉強したいと思ったのですか?

 教育行政です。

自分が受けてきた教育、ラオスの教育の現実に、子どもなりに矛盾を感じて、変えないといけない、と思ったんですね。

小学校に入るとき、どういう訳か、地元の学校ではなく、リセに行きたいと思っていました。あこがれがあったんですね。

リセはフランス人やベトナム人の子、ラオス人は良家の子ばかりで、入学試験はありませんでした。私の父は軍人でしたが、偉くはなかったので、上官に頼んで入れてもらったみたいです。私の家は下町にあって、まわりは元気な人ばかり。でも、うちの親は下品な言葉を使ってはいけないと言っていました。上流階級になりたかったのかな(笑)。私も子どもなりに上昇願望があったと思います。父方の親戚がリセに通うのがかっこよく見えたのかも知れません。

入ったら、フランス語が全然分からなくて。見事に1年生で留年しました。授業は全部フランス語でした。先生はフランス人やベトナム系フランス人、ラオス人、アルジェリア人もいました。上流階級のラオス人は家庭でもフランス語を話していましたが、うちはラオス語だったので、授業についていけなかったのです。

でも、先輩たちが教室を借りて塾のようにして後輩を教えてくれたおかげもあって、2年生には少しずつできるようになって、トップになりました。中学生になったら、さっき話したように、また下がったんですけど(笑)。

私の叔母は学校の先生をしていました。リセが休みの日、私は叔母にくっついてラオスの学校に行ってみて、びっくりしました。

教科書がほとんどありません。ノートも同様で、鉛筆も短くなったのを使っていて。

「同じ町の中なのに、リセとラオスの学校では、どうしてこんなに違うの?」

とてもショックでした。ラオスの学校の生徒がリセに行くと、これまたびっくりでした。

そんなことから、私は中学生のころから政府の教育に疑問を持っていました。当時は学生運動があって、中学生もデモに行っていました。みんな、「もっといい社会をつくろう、こんな大人になりたくない」という話は中学生のころからしていました。父は、私がデモに行かないように言いましたが、それは軍人という立場からで、個人としての考えはそうでないことはわかりました。私は大きくなったら、学校の先生か医者になりたいと思っていました。

日本に来て、学生の話題がファッションやTVタレントのことばかりで、これにも驚きました(笑)。

 当時のラオスはどんな様子でした?

 王政時代で、反政府勢力と内戦状態にありました。

ラジオからは軍隊を支援するための寄付や配給の話が流れていました。私のおばあちゃんは、文字は読めなかったけれど、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)と北京放送の両方を聞いていて、ニュースに敏感な人でした。

戦闘の報道は勝ったとしか言いませんから、ヴィエンチャンには実際の話は伝わってきませんでした。ただ、貧しい家の子は徴兵されていきました。学校でも、「あ、あの子がいなくなった」といって。豊かな家の子は徴兵されませんでした。

 フランス語の本というのは読む機会はあったのですか?

 よく読んでいました。

リセの近くに図書館があって、フランス語の絵本や児童書もたくさんありました。大人向けのフランスの雑誌『ムーラン・ルージュ』や英語の本もありました。

本を読んでいたおかげで、いろいろなことを知ることができました。のちに娘が生まれ、子どもと本の、本当に強い結びつきというものを知りました。それは、私が子ども時代に経験したことのないものだったのです。

interviewer:キキJAWS山本(会員)

2)へ続く

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2007年2月18日 (日)

四半世紀の「記録ノート」

「ラオスのこども」は1982年に「ラオスの子供に絵本を送る会」として始まり、今年2007年に25周年を迎えました。これまでの四分の一世紀、たくさんの人の思いや活動やアイデアそしてお金が集まって、絵本になり、子どもと絵本の出会いが生まれ、子どもたちの居場所が育ってきました。

たくさんの人たちでやってきたことを、書きとめたり、ぺたりと貼りつけたりしていこうと、ここに「記録ノート」を始めます。

「ラオスの子供に絵本を送る会」時代から今日まで、ご参加、ご協力くださった方、ご縁のあった方、ご記憶のある方、書きとめていただければ幸いです。

  共同代表 森 透

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