「会を始めたころの話」(3)
チャンタソン・インタヴォン(共同代表)◆
野口朝夫(事務局長)●
物を送る活動から、出版、移動図書箱の支援へ。
Q 最初のころは、どういうふうに活動していたのですか?
● 本や文具などを集めて、送りました。
本だけじゃなくて文房具もたくさん集まりました。服や鉛筆などの寄付も集まりました。使った肌着や短かくなった鉛筆まであって唖然とすることもしばしばでした。また量が多過ぎても送料がかかって困るんです。運賃は船便で1回40万~50万円かかるところを、笹川財団系列の団体に無料で送ってもらいました。当初、年に3,4回程度の集まりだったのが、1990年ごろになると月1回の定例会を開くようになりました。そのころは紙袋2つ程度の書類(申請書など)を持って、渋谷駅のそばの知り合いの料理教室を借りて、食べたりしながら会議をしていました。また、そのころ、ラオスに行くのにもまったくの個人のお金でした。
Q 物を送る活動は、やがてやめますね。
● 出版へと方向転換しました。
「物を送る援助では何も解決しない」という意見が森千也さん(2代目事務局長)からたびたび出され、しだいに他のメンバーの考えもその方向に向かっていきました。1989年のこと、寄付された物をラオスに送るときNHKが取材に来ました。神社に集められた物を取材記者(大村さん)が見た印象は、「ごみの山」でした。これが一つのきっかけとなり、支援の仕方を改めるようになりました。この報道番組の中で、「本を出版するお金が欲しいです」と訴えたところ、番組を見ていた日本語学校の先生から、お金を使ってくださいと申し出がありました。こうして、1990年、田島伸二さんの作品『ビックリ星』をラオス語にして出版することができました。
Q 移動図書箱の活動はいつからですか?
◆ 1992年から会でも移動図書箱の支援を始めました。
移動図書箱は、大人2人で運ぶような重い木の箱でできていて、開くと中に本が入っているというもので、タイのソンブン先生が開発したものです。ソンブン先生はラオスに来て、これを紹介し、ラオスでもやろうという話が起きていました。それが1987年ですが、私たちが移動図書箱の支援を始めたのは1992年です。しかし、箱があっても、そこに入れるラオス語の本がなかったのです。そこで、最初は旧ソ連時代からラオスにあったロシア語の本を箱に入れたりしました。その後、会としては移動図書箱の小学校などへの配布とラオス語の本の出版は並行して進めていくことになります。
◆ 出会ったのは早稲田奉仕園で、そこでのアジアの勉強会に関わっていました。その関係で野口の家に留学生が遊びに来るようになり、チャンタソンも先輩に誘われて顔を出すようになったのです。その後もアジアの話はしましたが、変えていこう!というような話はしていないですね。野口の家には、ベトナム、タイ、台湾などアジアの留学生が来て、ご飯をご馳走になっていて、私は先輩に誘われて来ました。
● その頃はNGOということばもボランティアということばも市民権を得ていませんでした。
Q 活動を始めたころ、ラオス人でいっしょに参加した人はいましたか?
◆ 75年にラオスで社会主義革命が起こり、王制が終わってラオスから後輩の留学生は来なくなりました。先輩の留学生はいましたが、どちらかといえば社会主義政府に反対する運動をしていました。私は彼らと付き合わずにいたら、「アカ」とレッテルを貼られました。私はラオス人のために何かをしたいと思っていました。
Q 日本で70年代の終わりごろ、難民支援のNGO活動が始まります。
会は、それらとは異なる活動ですね。
● ベトナム戦争が1975年に終わり、ベトナム、ラオス、カンボジアから難民となって国を出るインドシナ難民問題が起こって、70年代の終わりごろ日本の市民による難民支援のNGO活動が始まりました。タイの難民キャンプでの支援などですね。戦争中に敵として戦った人々はラオスに留まることは危険で難民となりました。しかし、それとは別に、社会主義となった国は捨てて出ていらっしゃい、こっちの水は甘いぞ、と言わんばかりに、難民になることを促すかのような活動もありました。私たちは、そうではなく、自分の文化に誇りを持って自分の国づくりを担い、子どもたちが夢を持てることに焦点を当てようと考えたのです。
Q 東京でのお正月パーティはいつごろから始まっているのですか?
◆ ラオスは4月に新年(ピーマイ)を迎えます。第1回のピーマイパーティは1982年ごろです。千石にあるアジア文化会館(ABK)を借りて毎年やっていました。政治背景のない、だれにでも来てもらえるものにしようと、公共施設を借りて開いてきました。最初のころは、会場探しやお料理を作るのにたいへんでした。人数は初めのころから100人くらい来てくれましたよ。かつては自宅で今は事務所の台所で一晩かけて料理を作り、野口が車で運びました。日本の人々にラオスの子どもたちのこと、ラオスの文化を伝えるというテーマでずっとやってきたのです。最初は、大学やお世話になった人など個人的な知り合いが来てくれて、それからだんだん輪が広がりました。25年間で1回だけ休みました。それは下の子が生まれたとき。私はやりたいと言ったけど、強制的に休まされました。食材は日本にあるもので、なんとかかき集めました。昔はパパイヤを探すのがたいへんで、上野まで行って買ってきました。ピーマイパーティでは、日本人と結婚したラオス人の女性など、ラオス人や日本人のいろいろな女性が一緒に料理を作ってくれました。今では、ボランティアのみなさんが料理の腕を上げて、演出もとてもすばらしくなりました。
